現場で働く日本人職員: 栃林 昇昌(フィールド要員)
2004年12月のインドネシア・スマトラ島沖地震の被災者支援のために、会社を辞めて現場に飛び込んだことがきっかけで、人道支援の道に。2014年5月からはICRC職員となり、ナイジェリアに初赴任。1年間の任務を終えたばかりの2015年6月上旬、現地の様子を聞きました。
■ ナイジェリアの現状を教えて下さい。ボコ・ハラムによる暴力が横行していると聞いています。
国内では戦闘が何カ月も続き、安全を求めて多くが国内避難民となり、北東部のマイドゥグリやヨラ、ゴンべに身を寄せています。難民キャンプに留まる人もいれば、親戚を頼ったり、自治体の世話になる人もいて、周辺のチャドやカメルーンに逃げ出す人も出てきています。
私たちは、パートナーのナイジェリア赤十字社と協力して、避難民を支援していて、昨年12月から、マイドゥグリで4万3千人、ヨラで15万人、私がいたジョスで3000人、その他の地域も合わせて約25万人に食料や生活必需品を届けています。
■ 人道危機は、国境を接するチャド湖の周辺国にまで拡がっています。
今年の2月末に、ナイジェリア軍を中心とした周辺国の軍が、拠点のゴザをボコ・ハラムから奪還したので、年頭のような激しい戦闘や大規模な戦闘は一時落ち着きました。一方、ニジェールがナイジェリアから来た人々を大量に強制退去させています。彼らは、必ずしもナイジェリア国内の戦闘を逃れてきた人々ばかりではなく、チャド湖で漁業を営み、ニジェールに定住していた一般市民も含まれています。そういった人々も含めて、いまニジェールからナイジェリアに大量に帰還していて、彼らへのケアが難しい局面を迎えています。ナイジェリア政府が国境の町ゲイダムに開設した一時避難キャンプにいる人々に、ICRCのマイドゥグリ事務所が中心となって、支援物資を届けています。ただ、こちらも一時的なキャンプで、政府は定住させる意思がないため、ICRCのような人道支援組織による支援が必要だと思います。
■ ICRCはどのようにして職員の安全を確保していますか?
一番基本となるのは情報収集。ICRCには軍や警察とチャンネルがあるので、そのネットワークが活かされます。ICRCの大事なカウンターパートには現地の軍や師団司令部も含まれますし、ナイジェリアであれば、警察本部や州ごとに情報サービス局という様々な情報を扱う機関があり、常にコンタクトを取れる状況になっています。あとは現地の赤十字社ですね。情報収集にあたっては、情報源を複数持つことによって確度を上げるという努力を常にしています。
私がいたナイジェリア代表部では、副代表が安全に関する情報を統括する責任者でした。様々な情報を彼女に集約し、彼女が最終判断をします。もちろん、情勢はめまぐるしく変わります。フィールドに行く直前には、その現場から一番近い事務所が最新の情報を各方面から集めて、共有します。
誰がどこに何の目的で向かっているのかは書面で残します。もし必要と判断されたら、現場に向かう途中で引き返すこともあります。私も実際、北部のバウチ州に1週間の予定で入りましたが、セキュリティ上の問題で2-3日で切り上げて、ジョスに戻ったことがあります。
世界中の紛争地で活動する私たちの人道支援はあくまでも中立かつ公平に行われます。敵対する組織や勢力のどちら側につくこともしないし、政府をはじめとする全ての勢力に赤十字の使命を知ってもらうことも、自分たちの安全を守る上で大切です。
■ 今年は赤十字の基本原則が宣言されて50年です。この原則のなかで、現場で実践するのが難しいなと感じたものはありますか?
中立と公平ですね。なかでも、公平性を保つのが難しいとよく感じました。ちょうど去年の今頃(2014年5月頃)は、公平性の確保について勉強させられた時期でした。ボコ・ハラムがメディアなどでは大きく取り上げられていますが、以前からナイジェリアで問題となっているのは、コミュニティ間の武力衝突なんです。
例えば、主に農業を中心に生計を立てているコミュニティと遊牧民である民族の争いです。遊牧民は大量の家畜を北から南に追いかけて生活していますが、彼らの牛やヤギが農作物を食べてしまいます。それに怒った農家が家畜を殺してしまう。牛やヤギは重要な財産なので、報復として遊牧民が武器で農家を襲撃してコミュニティ全体を焼打ちします。こうして人々は住む場所を失ってしまう。ICRCは、緊急度合からまず避難民を支援します。でも遊牧民からするとそれはおもしろくない。ここに公平性の原則が出てきます。そこで遊牧民を支援するために、彼らの家畜にワクチンを接種するキャンペーンを行います。
■ 栃林さんが人道支援分野に興味を持たれたきっかけは?
2004年12月26日に起きたインドネシア・スマトラ島沖地震です。その日は日曜日で、昼のニュースで地震と津波のことを知りました。最初は、「あー、また海外で大きな災害が起きたんだ」くらいにしか思わなかったんですよ。でも、日を追うごとに現地からの報道で、悲惨な状況が伝わってきて。何かしなくてはと思い、年が明けて1月4日に郵便局で日本赤十字社に一万円の募金をしました。その時は、これで自分ができることは終わった、と思いました。
ところが、翌5日に電車の窓から、ふと冬の青空と操車場を眺めていたら、「そうだ、津波の現場に行こう」と思いついたのです。そして、行くからには震源地に近くて被害が一番大きい場所にしようと、スマトラ島北端のアチェ行きを決心しました。1月末には退職し、2月21日にはシンガポールに向かい、そこからスマトラ島東北部の都市メダンに入りました。
バックパック一つでどこにも所属せずに来てしまったので、情報収集のためにメダンを歩いていたら、人の名前がリストになって張り出されていました。今思うと、行方不明者リストだったんじゃないかな。そのリストの上に赤十字のマークを見つけたんです。そこで、インドネシア赤十字社の現地事務所に飛び込み、無給でいいからボランティアをしたいと交渉しました。よっぽど日本人が珍しかったのでしょう。すぐに、アチェのキャンプを紹介してもらい、2月25日にはアチェに飛びました。
最初の3週間はインドネシア赤十字社のボランティアとして活動しました。その後、直接的な津波の被災者ではないのですが、町が壊滅したために収入減を失った人のために、国際労働機関(ILO)のボランティアとして、求人情報の収集や、求職者と求人広告のマッチングなどを支援しました。でもなにせ自前で来ていたので、飛行機の関係で一度日本に戻らなくてはならなくて。上司に相談したら、「今後は契約を出すから、戻って来てほしい」と言ってくれ、4月半ばにまたアチェに戻りました。この時はILOの契約職員としてです。これが私がこの道に入ることになったきっかけです。
■ 決して安全ではない状況下で、公私の切り替えはうまくできるのでしょうか?
私がいた北部のジョス事務所は、事務所の外を歩くことを許可されていたんです。17:00になったら一度仕事を止めて、同僚と外にウォーキングに出かけたりしていましたね。
インターネット環境はあまり良くなかったので、現地職員が退社したあとの夕方、回線が空いたときに、見たりはしていました。南アフリカのケーブルチャンネルもあるので、映画なども見れるんですよ。
■ 目の前に助けを求める人がいると、その人に肩入れしてしまうのではないか?と思ってしまいます。でも現実にはそういう方が何万と押し寄せている状況なので、どのようにして自分の気持ちと折り合いをつけて活動していますか?
その葛藤は分かります。支援物資を手渡すときも、現地職員は同じナイジェリア人なので、ある意味冷静に仕事をこなしていきます。人数が多いので、それくらいでないとその日の配付が終わりません。個人的には、辛い経験をしてきた避難民の声を聞いてあげたいという気持ちはあります。今後、その辺でうまいやり方と考えていければなとは思っているのですが。
■ 若い人へのメッセージをお願いします。
ICRCに入る前に、他所でキャリアを積むことをお勧めします。実は任期を終える直前に、上司が変わったこともあり、とても忙しかったんです。でもすごくやりがいを感じたし、何一つとして無駄だな、と思うことはなかった。それって、社会人でなかなか思えることではありません。
また、ナイジェリアと聞くと暴力を伴う事態が横行している、というイメージが先行しがちですが、先にも話したように、コミュニティ間の武力衝突や、お金が欲しいがために若者が隣の州の戦闘員となる、という事態の方が日常的に起きていて、影響が大きいのです。こうした国際情勢にももっと目を向けてほしいですね。