被爆体験者 小倉桂子氏のインタビュー
Q1: 原爆が投下されたその日、何が起こったのか、どのようにして生き延びたのか、その時の状況を聞かせてください
国民学校2年生の私は爆心地から北へ2.4キロの牛田町で被爆しました。 5 年生の兄は学童疎開、中学生の兄は学徒動員により広島駅の北で農作業中でした。 父が「何か嫌な予感がする。今日は学校に行くな」というので、私は一人ぼっちで家の北側の道路にいました。 突然目もくらむような閃光に包まれ、 続いて襲ってきたすさまじい爆風により路上に叩きつけられました。 近所の藁屋根は瞬時に燃えだしました。 家に戻ると家の中の大部分が破壊され、天井や屋根瓦は吹き飛ばされ、総ガラス張りの戸や窓のガラスは数百の破片となって壁や柱に突き刺っていましたが、幸いにも自宅にいた両親や兄弟達は軽傷で済みました。
そのすぐ後に、雨が降りました。雨がいつ降り出したかは正確には分かりません。多分被爆後、ほどなくしてだと思います。 外に出た私の服を濡らしたのは少しねばねばした灰色の「黒い雨」でした。 その雨は家中の壁に何本もの太い灰色の線を残しました。
やがて顔や手に火傷をした兄が帰ってきて、「広島は火の海だ」と言うのを聞いた私は、すぐ側の神社の高台から街の様子を見ようと外に出ました。 するとボロボロの衣服に包まれ、火傷を負ったり大怪我をした人々が避難してくる列に遭遇しました。 頭髪は焼け焦げ、煤(すす)で汚れた顔や唇は腫れあがり、血まみれになった何人かの人達の皮膚は垂れさがっていました。 幽霊のような無言の列の大半は軍人と学生で、やがて道端や神社に続く石段の上で、ある者はうずくまり、ある者は横たわり、いたるところが瀕死の重症者で埋め尽くされました。人々が押し寄せて来たのは、すぐそばの神社のあたりが応急の救護所に指定されていたためだと後で知りました。 私が見た石段には医者らしい人の姿は無く、バケツを持った軍人が一人、刷毛でチンク油の様なものを負傷者に塗っていました。 それから毎日、重傷者達の何人かが亡くなり、臨時の火葬場となった公園に運ばれて行きました。 この公園で父と警防団の人達は700人以上の犠牲者を荼毘(だび)に付しました。
突然、歩いていた私の足首を路上の誰かがつかみました。 「水をください」。力のない声が足元からするのです。 煤と血で覆われた誰かが私に必死にしがみついていました。 「水、水」、息絶え絶えの水を求める声が続きました。 走って家に帰った私は自宅の井戸水を汲み、瀕死の人達に運びました。 水を飲んだ直後に何人かの人がガックリと私の目の前で息絶えました。 驚愕し恐怖に震えた私は水をあげたことを後悔しました。 当時「重傷者に水をやるな」と言われていたことを幼い私は知らなかったのです。 その日のことは誰にも決して言うまいと思いました。その時の記憶は何十年たった後までも悪夢として残りました。
半壊した私の家は親戚の人、友人、知人などの負傷者で溢れていました。 姉は叔父の背中に突き刺さったガラスの破片を泣きながらピンセットで取り除いていました。 家の中は吐き気を催すような血、膿(うみ)、泥、焼け焦げた頭髪、汚物の臭いで充満していました。 すぐそばの裏山にも火の手があがり、広島は一晩中燃え続けました。
8月7日、神社前の高台から広島の街を見下ろしました。 見渡す限りの焼け野原に福屋百貨店と旧中国新聞社やいくつかの建物の残骸が見え、その向こうに見えた海は手が届くほど近くに感じられました。 遺体処理の煙がすぐ近くの公園から登っており、時折死体を焼くにおいが流れて来ました。 それから毎日、私は石段を登っては広島の街を見続けました。
Q2: 被爆を体験したことで人生にどのような影響がありましたか?そしてそれをどう乗り越えましたか?
Q3: 辛い経験をしながらも、ここまで来られた支えは何ですか?
まず、放射能の体への影響があります。原爆は他の兵器とは違うということで、出産できるかとか、生まれた子に影響がないかとか、放射能の影響を心配します。核兵器の悲劇は、自分の子孫にも何らかの影響があるかもしれないという恐怖を一生背負うこと。子孫に及ぶかもしれないから、日本人は隠そう隠そうとする。自分の身に降りかかるならまだしも子や孫だから言いたくない。でも、親としたら、いつかもしかしたら..と常に不安なんです。
一番の恐怖は、地域の人達からの差別、身の回りからの差別なんです。遠くなればなるほどしゃべっても大丈夫かな、という気になります。なので私は、外国人に話すことから始めました。「核兵器を使うとこんなに恐ろしいことになりますよ」と話すことによって世界平和に貢献できると、今は信じています。
私には二つのトラウマがあります。一つは、水を求めてきた人に水をあげてしまっこと。当時常識だった「水をあげてはいけない」ということを知らなかった。水を飲んでたくさんの人が喜んでくれたけれど、その中の何人かが目の前で亡くなってしまったんです。そのことが子供心に焼き付いてしまって、長い間「自分はなんてことをしたんだろう」と責め続けました。その経験を家族を含め、誰にも話すことができませんでした。長い間悩みました。何十年も経ってから、やっと外国人の友達に話しました。その瞬間、それまでの苦しみが消えたんです。他人に話すことで乗り越えられたのです。
誰かに言いたいけれど言えない悲しいこと、恐ろしいこと、自分がやったことは、人に話せば乗り越えられると思います。私にとっては、それが解決策でした。秘密を持つことで自分が苦しむ。どんな悲しいことも辛いことも、人と分かちあうと乗り越えらえれるんです。
だから、私の生きている支えも、人に話すということ。「目の前で子どもが亡くなったけれど自分は生き続けた。なんでもう少しそばにいてあげられなかったんだろう」と多くの人が長い間誰にも言えずに自分を責め続けています。でもそれを乗り越えるのは、忘れることではない。自分が生き残った意味を考え、その意味を人に伝えることで乗り越えられると思うんです。悲しみに打ちひしがれた被爆者達が絵を書いたり、詩を書いたり、話をしたり、何らかの方法で人に伝えることによって解決してきた、乗り越えられたと思うんです。人間は乗り越えられるんです。そして、絶対生きなくてはいけないんです。そのことを伝えたいですね。自分が生き残ったことに罪の意識を感じなくていいんだよって。
自分が極限状態にある時に「助けて」と懇願されても、振り払って逃げるしかなかったんです。地面や河原は4000度以上の熱さで、逃げるのも大変。他の人を助けたくても、どうすることもできませんでした。でも、そのことが繰り返し繰り返し思い出される。恐怖はあるんだけど、死体の横を通っても大丈夫だったり。その非情さを今思い出すといまだに恐怖に震えます。なぜ子どもが地獄の中で生きてこれて、しかもごはんも食べたり生活ができたのか。心が凍り付いてしまったんですね。そのことは人に一番言いたくないことです。
Q4: 核兵器廃絶運動に尽力する中で、どのような手ごたえを感じていますか?これまでの成果を聞かせてください。
あまり手応えは感じていません。核削減がこんなにも難しいとは思っていませんでした。ですから、毎年夏になると深く反省します。8月6日には亡くなった人達のことを川のそばで思うんです。どうしてこんなに長い間かかるのか、信じられない思いです。どれだけの量を削減するのか?という議論をしても、私達からすれば五十歩百歩。核兵器を完全になくさないと意味がないのです。成果があったとすれば、どんなに微力でもやり続ける、決してやめなかった、ということでしょうか。
資料や写真を見ることも大切ですが、被爆者が震えながら当時の話をすることが、何よりもインパクトが強いと思います。面と向かって話をすることの意義。表情だったり、傷跡だったり、つまり被爆者の存在そのものが訴える力を持っているのだと思っています。これまで何度も核兵器が使われるかもしれないという危機がありましたが、それを踏みとどまらせたのは被爆を体験した我々の力だと信じています。
信じがたいことですが、原爆の使用により多くの人命が助かったと思う人がいます。こういった人達には対応を変えなくてはなりません。相手によって話し方を変えるということを35年間続けています。もっと人々の心に届く方法はないのだろうかと日々悩んでます。
アメリカでは原爆使用の是非について議論が分かれています。けれども、広島を訪れたアメリカの若者達の「核兵器は絶対に使用してはならない」という思いは強くなっています。広島を訪れる外国人の数は毎年増えています。アメリカをはじめ核兵器を保有している国が、「自分達の国には核兵器があるんですよ、怖い兵器ですよ」とその脅威を子ども達に認識させるのが平和教育だと思います。怖さを知る、というのが効果的な方法なんです。
爆弾は落とされるだけが被害ではありません。核兵器を製造し、実験する過程において、多くの人が被曝しているのです。そういう人達は、私が広島の被爆者であるから自分達の不安を話してくれる。「あなたは被爆者なんですね?だったら話します。私達はこんな目にあったんです」と。被爆者だから悩みを聞いてくれる、自分の痛みを分かってくれる。それがものすごく大切なことなんですね。広島は常に世界に「語る」だけではなく、世界の声を「聞く」所でありたいと思います。
ルワンダで大虐殺の恐怖を経験した人達や、中東の方々も来ます。自分達の話をわかってくれるだろうと思って、いろいろな人が集うのです。絶望の中でどうやって街を再建し、希望を持つことができたのか。被爆者達はアメリカに対する憎しみを乗り越えて心の傷をどうやって癒したのか。
私はいつもこう答えます。「リベンジ」という言葉が虚しくなるほど核兵器の持つ破壊力はあまりにも大きい。一国がどうのこうのと言うレベルではなく、このような絶対悪である核兵器そのものこそが憎むべき敵なのです。
Q5: 核軍縮のために、アメリカの一般市民にできることは何があるでしょうか?
アメリカの人達だけでなく、世界中の人が核をなくすために私達と一緒に行動をしてほしいと思います。核は絶対悪ということをしっかりと認識し、多くの人と語り合う。でもまずは、自国で立場の違う人と語り合う。それからもう一歩広げて、できるだけ多くの外国人達と語り合ってほしい。歴史を学ぶ上で自分の国だけでなく、他国の歴史も学んでほしい。戦争になりそうになった時、相手の国の歴史を学んで、どうして彼らは武器を持って戦う気になったのかを理解しようとすること。自国を学び、他国を学び、戦争の原因を学び、話し合う。そこに高校生、大学生みんなが参加する。そうすれば、価値観の違いが自ずとわかります。なんでそういう風に考えるのか?ということをとことん話し合う。そして、共通項を見つけることが大事です。
核兵器のもとではすべての人類は平等なのです。どこで核が爆発しても、地球そのものが被害を受けるわけですから、その影響をみんなが同じように受けるのです。運命共同体です。
Q6: 核なき世界が実現する日がいずれ来るとを信じていますか?それを叶えるために必要なことは何だと思われますか?
戦争の真っ最中ではなく、火種を見つけて消す努力をすることが一番大切です。少年が銃を乱射する事件が起こったりしますが、どうしてその子は銃を持つに至ったか。一体どこで選択を間違ったのか。その原因をとことん突き詰めることが大切。国単位、世界レベルというけれども、元を正せば個人なんです。国も地域もグループも、一人一人の個人が作っているということ。だから、国任せ、地域任せにしてはいけないんです。他人にやってもらおうと思わないこと。自分ができることは何か?と毎日考えれば世界は変わると思います。
私の話を聞きに多くの学生が広島に来ますが、私は一人一人に語りかけているつもりです。その一人が友達に話し、その友達が身近な人と対話をする。その広がりが大事です。身近で殺し合っていたら世界平和なんて考えられないわけですから。
私は一番大切なのは想像力だと思います。遠くで被災した人をニュースで見た時に、この人達はどういう風に生き延びたのか、どんなことで苦しんでいるのか、という想像力を働かせること。だから、情感豊かな人になってほしいですね。特に若い人には。一人一人が知識を深くして、いろいろな話を聞いてそれを受け止める柔軟な心と想像力がなければだめです。想像力のある人が人の痛みもわかるんです。
自分以外の人がどんな痛みを感じているのか。日本の外でどんなことが起こっているのか、関心を持つことも大事です。無関心も武器と同じなんです。
そういった意味でも、教育とメディアは重要な役割を担っています。日本が第二次世界大戦で深みにはまることになったのは、教育とメディアにも責任があります。私達はメディアによって翻弄されました。日本は勝っている、勝っているぞ、とね。学校の先生達も同じでした。中学生・高校生でも神風特攻隊を志願するような気持ちに教育がさせた。教師は、生徒に対して「死ぬな、生きて帰ってこい」とも言わなかった。お国のために死ぬのが美しく、貢献することであると教わったんです。教育が洗脳に変わったんですね。だから、教育は本当に大切。もちろん、国の行く末を左右するような決定権を持つ人には、情勢を見極めて柔軟な対応をし、人の痛みにも敏感になってほしいと思います。
私は、今の若者に生きることの意味を伝えたい。生きるってどういうことなのか。「私はこんなにつらい思いをして生きてきたんだから、あなたは今生きていられる現実を大切にして」と訴えたいんです。それが若者に対しての私からのメッセージです。生きていることの素晴らしさを自分で感じてもらえれば嬉しいです。