現場で働く日本人職員:阿部真(あべ まこと)さん

イラク
2020.06.15

ICRCに入ったきっかけは?

僕は大学院を卒業してすぐにJICAの青年海外協力隊で東ティモールに行き、二年間派遣されました。そこでプロジェクトマネージャーを経験し、企画の提案、資金集め、プロジェクト実施というサイクルを体験できました。任務を終えた後も東ティモールに残り、一年間現地のNGOで働いていました。その中で、現地語であるテトゥン語の通訳として地元の赤十字と一緒に仕事をする機会がありました。ほとんどがボランティアだったにも関わらず大変士気が高い姿に感銘を受けて、彼らと一緒に働きたいと思ったのが、ICRCに応募したきっかけです。

赤十字の中でも、なぜICRCだったの?

正直、最初は国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)に行きたかったんですよ(笑) IFRCに入れば、そこから各国の赤十字社に派遣されることができますから。ジュネーブの本部で働きたいというわけではありませんでした。そこで、ICRCに入ればIFRCへの道も開けるんじゃないかと思ったんです。あとになってICRCでのやりがいに気づいたんですけど。

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現場ではどのような体験をしてきた?

初任地は、フィリピンのマニラでした。その後ミャンマーのミャウ事務所で所長を、その後同国のシテゥエ副代表部で副代表を務めました。後者は“事務所”ではなく、比較的大きな規模の“副代表部”なので、100人超のスタッフを抱えてマネジメントが大変でした。昨年末まではイラクのバスラ事務所で所長をしていました。ICRC歴は、合計すると約4年になります。

実際の現場に出て驚いたことは?

フィリピンの留置所を訪問した際、まずその混雑具合に驚きました。留置所は、刑務所ではなく容疑者を一時的に留めておくところなので、十分な設備がありませんでした。過密度は1000%を超える場所もあり、熱と強烈な臭いがこもっていました。当然座ることができないので、みんな立っています。交代で横になったりして睡眠を取っていました。過度の運動不足から、足が膿んでしまうエディマという病気にかかり、中には亡くなってしまう方もいます。彼らができるだけ外で運動できる時間を設けることや効率的な拘置部屋の割り当てを提案したり、臭気・熱気を逃がすために空調設備を設置したりして、改善することを試みました。

とはいえ、混雑自体は解消されないので、なんとか被拘束者の待遇を改善しようとまず刑務所に働きかけます。その際、ジュネーブ諸条約をはじめとした国際人道法や、マンデラ・ルール等の国連のガイドラインも参照しますが、まず重要なのは当事国の国内法です。

刑務官たちの話を聞くと、大半は現状への対処の必要性を感じていました。ただ、予算やセキュリティ上の制約など、問題の多くが刑務官レベルでは対処できないものでした。なので、糾弾はせずに、相手の立場を理解した上で一緒に解決策を探っていく、という姿勢が重要です。

ICRCが留置所の混雑を根本的に解消するために行っていたのが、司法当局に働きかけることでした。フィリピンでは留置されてから一年程度で裁判を終わらせなければならない、という法律があるのですが、実際は10年以上も有罪判決なく留置されているケースも散見されます。そのため、長期拘留のケースを明示し、担当裁判所毎にまとめて早急に司法手続きを進めるよう、担当官に訴えます。実際に僕が関わったケースには、十数人が起こしたいわゆるテロ事件に対して、容疑者200人を留置して10年以上経過している、なんてこともありました。

船でしか支援対象者にアクセスができない場所も

所長の仕事とは?

所長と言ってもオフィスによってその職務はかなり異なります。

ミャウ事務所では、名目上は所長ですが、規模が小さかったので、一般のデレゲート(国際職員)と変わらず、楽しかったです。人が少ないので人事もそれほど複雑じゃなかったですし。事務所が日々回るように最低限のタスクさえ覚えてしまえば、フィールド業務との両立は特に大変だとは感じませんでした。

ここではラカイン州のイスラム教徒に対して医療を提供する方策を模索しました。彼らは厳しい移動の制限があるため、2012年の危機以来、病院へのアクセスが皆無でした。

私たちはイスラム系住民とラカイン州の双方のリーダーたちと話し合い、いつ、どのルートなら病院へ行くことが許可されるのか等を交渉し続けました。その間、ICRCとして水の供給や農業支援なども提供しました。結果、ついに最初の1人が病院で治療を受けるところまでこぎつけました。信頼は行動から育まれます。病院に行けることになっても、行った先で暴力を受けるのでは?という恐怖もあります。なので、この1人の通院を実現するのが最も難しく、重要でした。以来、僕が去るまでに3、4人が病院へ通い、今も病院へのアクセスは保たれているようです。

次のシットウェは副代表部だったので、仕事内容も現場よりマネジメントに重きが置かれました。当時、ICRCと国内パートナーのミャンマー赤十字社だけがラカイン州の北部にアクセスを許されていたこともあり、非常に忙しかったです。特にミャンマー当局の手続きをクリアするのに困難を極めました。現場入りする許可を得るため二週間に一度書類を提出をしなければならず、毎日その作成に追われていました。加えて、現場での活動を数字や統計と一緒にまとめるのも日課。どの村にどのくらいの量の食料を渡したかなど、毎日約30カ所を回る上、それぞれ複数の種類の物資を組み合わせて配付しているので、すべてを分別して記録するのは大変な作業でした。こうした大規模の統計をまとめる担当もICRCにはいるですが、今回は緊急だったので人材がまだ派遣されておらず、管理職が代理でやることになりました。

地域住民の信頼を得るため、赤十字の中立・公平・独立の使命や活動内容の説明は必須

シットウェでは現場に携わる機会が減ってしまったので、次の赴任先は副代表部ではなく事務所を希望しました。そして、イラクのバスラに事務所長として移動することが決定。事務職中心のシットウェでは毎日送信するメールが200通くらいだったのが、バスラに移ってからは50通くらいに減りました。人事業務も激減し、再び現場に注力できる環境になりました。

バスラでの所長の仕事は、主に全体戦略を練ること。事務所の歴史は長いのですが、途中一旦閉鎖された経緯もあり、業務体系がまだ整理されておらず、各部署がそれぞれバラバラに動いてる状態でした。

そこで僕は、事務所の活動の主軸を兵器汚染に置くことにしました。不発弾や地雷が環境や土壌を汚染し、被害を受けて手足を失う人が少なくありません。兵器汚染の対策は地雷のリスクについての教育だけではありません。警告のための看板設置や、被弾した場合の医療、リハビリ、生活支援へのアクセスをICRCがパッケージとして提供することの重要性を訴えました。国連などは、専門機関がある程度独立して各々の予算で対策にあたっていますが、ICRCは別機関を作ることはせずにICRC内で全てをカバーしています。パッケージで支援ができるというのがこの組織の一番の強みであると僕は感じています。

兵器汚染の問題に対して、組織が一丸となって包括的なアプローチで取り組む

今後のICRCでのキャリアは?

僕はできるだけ現場に携わりたいです。昇進して、本格的に管理職になってしまうと、オフィスワークが増えて、事務所からなかなか出られない状態になってしまうので、もどかしいところですね。心はいつも現場に寄り添いたいと、常に思っています。