現場で働く日本人職員にインタビュー:川崎 弥智都 (かわさき みちと) さん
ICRCに入ったきっかけは?
将来はアフリカで野生動物の保護の仕事に関わりたいと思っていて、そのためには英語とフランス語が必要だと思ったので公立高校でフランス語の授業を取りつつ、二年生の時にはアメリカに一年間交換留学をして英語を学びました。この時の留学先でアジア人学生に「日本は第二次世界大戦中にひどいことをした」と言われ、知識としては知ってはいたものの、衝撃を受けました。自分は祖父母が戦争を体験していて、空爆にあった話や友人を失った話など聞いていたので、そう言われた時に「でも両方に被害者がいるのにな」と思ったことを覚えています。
その経験から、いまだに世界各地で起きている紛争地で戦争被害者を支援する仕事に携わりたいと思い始めました。その後本格的に国際機関を目指すため、日本の大学では国際関係学を学び、大学三年の時にはフランスに一年間交換留学をしました。大学卒業後はアフリカの紛争研究を学ぶためフランスの大学院に進学し、政治学と社会学の修士号を取りました。修士論文はリベリアの少女兵士の紛争後の社会復帰の難しさについて書きました。
二つマスターを持ってるんですか?!
奨学金までもらっていたのに最初の一年で留年しちゃいまして…。それが悔しくてダブルマスターに切り替えて、三年間で二つの修士を取りました。国際機関は二年の職務経験を必要とするので、大学院卒業後は日本で就職活動もしたのですが、現地経験があったほうがいいだろうと外務省の専門調査員に応募して、セネガル、モーリタニアで二年働きました。その時初めて、ICRCが日本人職員を募集しているという話を聞きました。ICRCについては、アンリー・デュナン(赤十字の創設者)を何となく知ってるというレベルでしたが、調べていくうちに、中立の立場であらゆる組織と対話をし、敵味方関係なく戦争犠牲者を支援するというのが、自分の日本人としての原点と重なり、応募しました。その後採用され、パレスチナは西岸のナブルスに15カ月、ニジェールに18カ月、イラクのアルビルに15カ月、同国北部のキルクークに6カ月派遣され、今はエルサレムで勤務しています。
ICRCに入る時に苦労したことは?
英語ですね。今は比較的テストも楽になったと聞きますが、昔は本当に難しかったです。筆記試験が全然だめで、そのせいで2回落ちています。
喋りは問題なかったので、最終審査には呼ばれました。丸一日かかる最終審査アセスメントデイ(後述)での評価は高かったらしく、「この人英語のライティングはできないけれど、日本人には珍しくフランス語もできるからもう一回テストを受けさせよう」ってなったらしいんです。その後日本の英会話の先生についたりして、もう一回受けました。でも、また落ちてしまったんです。不採用通知を受け取った時、語学で落とされるなんて!とショックでした。ジュネーブの語学担当者に「どんなに勉強しても受からない。どうすればいいのか」と質問したら、「日本で英語を勉強してもたぶん要求レベルに応えられるようにならないから、この中から先生を選んで勉強しなさい」とリストを渡され、イギリスで個人レッスンを受けました。もっと前にくれたら良かったのに!って思いますよね(笑)。その先生は過去に何人もICRCのデレゲート(国際要員)候補を教えた経験があったので、問題の傾向も把握していて、結局3回目の筆記試験でようやく合格できました。
筆記試験はどのような内容だったんですか?
レポーティング形式で、30分で論文を書き上げるというものです。その裏には穴埋め問題があります。ただの穴埋め問題ではなく、それこそ外交文書のようなものを扱うので、そもそもどこに何を入れていいかなんてわからないんです(笑)
論文についても、「あなたは今虐殺が続く紛争地にいます。○○軍の将軍はセキュリティが確保されないため人道支援団体を絶対に受け入れないと言っています、さあ、彼と交渉しなさい!!」
こんな質問、英語ができても答えられないですよね・・・。
アセスメントデイ
これはいわば、最終審査です。一次面接、電話での面接(語学)をパスしたら、ジュネーブ本部から交通費が出て本部に呼ばれました。最終面接に残った候補者を、朝9時から夜5時くらいまで8人くらいの審査員があらゆる観点から審査します。
試験は、心理面を見るものからロールプレイ、またいろいろな試験を受けつつ合間合間に論文を書かされたりと、ストレス管理ができているか、チームワークがとれているか、さらにコミュニケーションスキルはあるのか、食事さえ審査員と共にして、いろいろなスキルを多角的に観察されます。
働いていてやりがいを感じるのはどんな時?
ICRCのデレゲートの仕事はいろいろあるんですが、伝統的なICRCの仕事の一つに刑務所訪問というのがあります。昔で言えば戦争捕虜、現在の紛争で言えば武装勢力に属していて捕まった人たちが国際人道法に基づいた待遇を受けているかをモニタリングする仕事です。拷問を受けていないか、家族と連絡がとれているか、暑さ寒さをしのげるなど最低限の生活環境が保たれているか、などです。この刑務所訪問で、今まで会ったことがないような境遇の人たちといろいろ話すことがあり、仕事の面でもですが、学ぶことが多いです。やりがいは、やはり人に感謝されたときに感じますね。
ニジェールで私が会ったその人は、67歳くらいの年配の方で、刑務所に40年くらい拘留されていました。ニジェールでは当時、高齢の囚人は60歳以上になると釈放されるという法律があったんです。でもそのためには出生証明書が必要で、様々な理由で家族と連絡を取ることのできない彼はその書類が入手できませんでした。刑務所の所長さんも尽力されたようなのですが、何しろ彼の出身地がど田舎らしく、家族自体が見つからない、ということでICRCに依頼が来ました。
まず覚えている家族の住所に手紙を書いてみようということで、家族はどこにいるのか聞いたら「40年前はあそこにいた」ってそういうレベルなんですよね。まずはおじさんに手紙書こうと思っておじさんの年齢を聞いたら、生きていたら95歳くらい。とりあえず何人かの親戚の情報をもらって、もしも亡くなられていた場合を考えて、その息子さんか娘さん宛てに手紙を書いてもらいました。ところが、この国は都市を除いて住所というものがないに等しい。ちょっとおおげさですけれど、「この村から北に一日歩くと○○という遊牧民の村があって、さらにそこから右に曲がって10時間歩くと大きな木があるから、そこをさらに左に曲がって、、、」というレベル。その住所を手掛かりに、地元の赤十字のボランティアが、バイクや自転車を使って探しに行きます。何カ月かかかって、何度か手紙も宛先不明で戻ってきて、っていうやり取りを繰り返してくうちに、ついに見つかったんですよ。
彼が証明書をもらった瞬間、わーって刑務所中がお祭り騒ぎになりました。「ICRCが、これを持ってきてくれたぞーーー!!!」みたいな。まあこの話にはオチがあって、出生証明書が届く合間に法改正があったため、釈放の年齢が60歳以上から70歳以上に変わってしまいました。そのせいであと数年刑務所にいることになりましたが、みんなが匙を投げていたその彼を助けたことで、その刑務所でのICRCの評判はすごくよくなりました。
収容所の環境改善を要求するなんて難しそう・・・
国によりますね。ニジェールはとても貧しい国で、今まで大規模な紛争というものを経験したことがありませんでした。ただでさえ最貧国の一つで収容所内の環境が悪いのに、ボコハラムとの戦闘が勃発して多くの囚人が首都に送られてくると、さらに悪化しました。ICRCはニジェール政府だけでは問題を解決できないということで、刑務所にも支援を行い、完ぺきではないまでも改善しました。食事が提供できるように台所を拡張したり、栄養不良に陥った囚人には栄養食を提供しました。
紛争というものはそれに関わるすべての人々を傷つけます。家族を失い、憎しみも生まれます。それでも、相手の苦しみを理解した上で、国際人道法の原則を説明し、敵であっても人間的な処遇を受ける権利がある、と対話を続けると、改善のための努力が見られることもあります。
ICRCには、国際人道法によって、敵味方の区別なく拘束された人を訪れる権利があります。私たちが囚人を訪問し、登録し、家族との接触を支援することによって、塀の中の人が「消える」「消される」という事態を防ぐ抑止力になります。
国際人道法を守ってもらうには?
まず軍や民兵に対して、ICRCの成り立ちや赤十字の役割、国際人道法で規定されている武力行使の際の民間人と戦闘員の区別や、軍事成果と民間の被害の均衡性の原則などをレクチャーします。具体的にその国の例を出すと敵味方の現実的な話になってしまうので、違う国の例を出して、学校や病院、軍事施設などが描かれたイラストを交えながら、どういう行為が人道法に反するかを説明します。そういう話を外国人の私がすることで中立性も確保できます。これまでの現場経験を踏まえて、あの国ではこうだった、この国ではこんなことがあったと話すと(参加者の関心は高く、たくさん質問も受けます。たとえ自国が紛争下にあっても、他国への関心も高いです。ミャンマーのラカイン州に暮らすイスラム教徒(一般的にはロヒンギャと呼ばれる民族)の状況や、イエメンでICRCがどのような活動をしているのか等聞かれたりすることもありました。
最も印象に残っている現場でのエピソードは?
ニジェールでは行方不明者が多くて、探したら亡くなっていた、というケースもありました。
ある日、60歳くらいの男性が、ICRCが行方不明者を探しくれるという話を聞いて、自分の村の村長さんと一緒にわざわざ2,000キロの道のりを旅して私たちのオフィスを訪ねてきました。自分の息子が2-3カ月前から行方不明で、母親である妻は眠れない日々を送っているとのこと。
ICRCには、紛争で離散した家族の一員や、拘束後行方不明になった人を追跡調査する、RFL(Restoring Family Links)という事業があります。
そこで、行方不明者探索の用紙に私が記入を始めようと息子さんの名前を聞いたら、先日訪ねた刑務所で亡くなり、引き取り手がわからなかった人と同名だったんです。出身地や年齢等、ほかの情報もすべて一致しました。父親のその男性は、「ICRCに届けを出したし、これでやっと息子に会える」と期待しているのがひしひしと伝わってきました。
ここで一つ説明すると、現在の紛争は明確な軍規定や軍服さえない武装グループや民兵がかかわってくるため、一度紛争が始まると民間人でも拘束され、尋問を受けることになります。民族同士の争いが根本にある場合、その民族に属しているというだけで拘束される対象にもなります。行方不明者を探している家族の多くがそのようなケースでした。
どのように対応すればよいのかわからず、上司に相談したら「すぐ伝えた方がいい」と言われました。私が、「残念なんですけれど、その方は亡くなられていて、遺体は…」と話し始めると、その男性はぶるぶる震え出して、かなり衝撃を受けているようでした。長い沈黙の後、その人が最初に言った言葉が「ありがとう」だったんです。「すごくつらい知らせだけれど、息子の運命を知ることができた。ありがとう」って。私は、その男性が帰った後辛くて泣きました。そうしたら上司がこんな話をしてくれたんです。
彼女が以前勤務していた南米のある国でも、娘をずっと探し回っていた母親がICRCにたどり着いて、既に娘が亡くなっていることを知らされました。その母親の最初の言葉も、やはり「ありがとう」だったそうです。「今までは心配で夜も眠れなかった。今できることはないか、娘は辛い思いをしていないか、ちゃんと眠れているか、今どんな思いをしているのか、ずっと考えてばかりで苦しくてしょうがなかった。死んでしまったことは確かにとても悲しいけれど、娘はもう苦しみがないところにいったんだってことが分かって良かった」
悪い知らせでも、家族にとってその人がどんな目にあったのか、どんな状態にあるのかを知る権利があります。できればこうした悲しいニュースは伝えたくないけれど、実際家族の方たちにはとても感謝されるんです。
日本人を意識する時はありますか?
私はまだアジアで働いたことがないのでアフリカと中東の経験になってしまいますが、かつて植民地であった国々において、日本人であるということはプラスに働くことが多いと思います。仕事で出会った多くの人たち(政府、民兵、武装勢力、被拘束者)が、日本人の私に広島・長崎の原爆投下の怒りと悲しみを表し、日本が敗戦の中から驚異的な経済的成長を遂げたことを称賛してくれて、遠い日本からはるばる来てくれたことを感謝してくれます。これは、西洋の職員と比べると有利に働くかもしれません。
女性の強み
ICRCの職員は全体的に男性が多いんですが、私が働いている保護部門では女性が活躍していることが多いです。現地職員は圧倒的に男性が多く、管理職も男性が多いですね。最近は女性の代表も少しずつ増えてきていて、例えばイラクやシリアの首席代表は女性でした。以前は伝統的な原理主義の紛争地だと女性は入れないとされていたんですけれど、実際女性が派遣されるようになるとそのことで問題が起きるという話を聞いたことはありません。現在では女性であるからということで規制される国はないと思います。また、仕事をしていて女性であることで難しさを感じたことは一度もないですね。
いかに紛争を理解するか・・・
これは個人的な話になるのですが、実はイラクでの二年間のミッションの後、スランプに陥っていたんです。私の赤十字で働く原動力というのは、もちろん夢物語ですが、紛争で苦しむ人々を少なくしていくにはどうすればいいのか、という疑問から生まれていました。
複数の紛争地を経験して、ありとあらゆる人たちの話を聞いてきました。それこそ多くの犠牲者を生み出した加害者とも。でも、どこでも紛争が終わる兆候が見られなかった。というのも、本当に紛争っていうのは人の苦しみや他者への憎しみから生まれていて、それぞれが自分なりの正義があって戦っているということがよくわかったんです。そしてその憎しみの連鎖をバックアップするシステムも見えてきました。
国際人道法は、戦争や紛争ありきで、そうした究極の状況下でもルールは守られるべき、ということで存在しています。ICRCもあくまでも紛争の犠牲となった人々を支援し、保護するというスタンスです。紛争の根本原因の解決はどこにもない。だとしたら、私たちが今やっていることも、将来的には紛争犠牲者をなくすことに繋がらないのかなって、考えてしまったんです。
今までがむしゃらに与えられた仕事をしていたけれど、「紛争を理解する」という自分の中の至上命題に向き合って、今度はもっといろんな人から紛争解決についての声を聞いてみたいと思うようになりました。これが、次のミッションにエルサレムを希望した理由です。
これは特にイスラエルやパレスチナで仕事を経験すると感じると思うんですけれど、人道支援がシステムの一つとして既に組み込まれているんです。常に犠牲者は出るけれども、人道支援団体がきてぱっと対応し、でも暴力を生み出している根本問題は残り続ける。私たちはただのバンドエイドだって皮肉を言うこともあります。問題の解決は後手後手に回って、ずっと続いていく。そういった意味で、こうしたシステムの外からも物事をみてみたいなと思いました。
エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地です。そして、多くの争いごとのシンボルでもあります。宗教と言ってもそれ自体が人を殺すわけではありません。宗教でなくとも、多くのイデオロギーが人を殺してきました。ただ現在の世界で起きている物事において、宗教が大きな役割を果たしていることは事実です。宗教のど真ん中にいる人たちがどういう風に問題を解決していきたいと思っているのか、そもそも解決したいと思っているのか、現地でいろいろ話を聞いて、考えてみたいと思います。
今後ICRCを目指す人に・・・
まず社会人経験が二年必要です。それと、ICRCは国連機関と違って修士は必要ないです。ただ、ICRCで最大の難関といわれているのが言語です。
英語のテストの厳しさは前述しましたが、英語に加えてほかの言語も話せると有利です。特に特殊言語。アフガニスタンのパシュトゥン語は一時期大変需要が高くて、少し似ているペルシャ語ができる人を採用してパシュトゥン語を3カ月特訓させて通訳として送る、ということもありました。これらの特殊言語ができる人が必要な理由ははすべて、ICRCの仕事は機密性が高いため現地で雇った職員を保護の仕事に就かせることができないためです。
フランス語はICRC本部がジュネーブにあるためフランス語メインの風土が少し残っていて、会議でも英語からいきなりフランス語に切り替わったりすることがあるので、できると有利です。またこれは日本人にあまり知られていないことですが、フランスの大学の学費はとても安く(年間200ユーロ程度)、日本の大学に行くのとほぼ同じ金額で学位が取れるのでフランス留学はおすすめです。日本でかかる学費を生活費に回すこともきるので。私が若かったらやっておきたかったな~と思うのはアラビア語です。社会人になってからインターネットで中東諸国が提供している短期・中期の奨学金制度をみるにつけ、やっておくべきだったと思いました。
福利厚生について
ミッション中の住居と移動用の車は組織が提供してくれるので、着任後すぐにフルで働くことができます。あと、初めの二年が終わると、ある程度自由に次の赴任先を選べるようになります。私の場合は、保護事業のミッションが三つ続いた後に支援事業(医療、水、農業支援、生計自立)もやってみたいと人事マネージャーに伝えたら、希望に沿った良いポストを見つけてくれました。ICRCでは一人ひとりにこうしたマネージャーがついています。
自己能力開発プログラムというものもあって、二年以降は休暇中に語学学校に行ったり、任期中にオンラインの大学講座を受講したりということに組織が補助金を出してくれます。私はこのプログラムで3カ月間ヨルダンにあるアラビア語の語学学校に通いました。そのほかにも、家族優遇制度というか、ICRC内の職場結婚だと夫婦が同じ国に派遣されるように配慮してくれます。またある程度の管理職ポジションになってくると組織内での公募になっているので、自分で好きなポジションに応募できるようになります。最近の大きな変化としては、ミッション後に最大一年の休暇を取れるようになりました。私は今回初めて6カ月の長期休暇を取っています。国連と比べてICRCは正規雇用を推進しているので、職としては安定しています。ただ、紛争専門の団体なのでタフなミッションが多いです。
精神的にタフであること
最後に。仕事自体はものすごくやりがいがあります。自分の仕事が誰かの役に立っていると感じることも多いです。ただ個人的に思うのは、こういった紛争専門の組織で人々のために働きたいという思いはあったけれども、暴力や不正義を目のあたりにすることへの心の準備や、そういったものが自分の心に及ぼすストレス等についてはあまり考えてこなかったということです。私はとてもラッキーで、初任地のパレスチナでは、民衆蜂起を二度経験した20年のベテラン同僚が補佐についてくれました。ある事件の聞き取りの後、ショックを受けて運転の仕方を忘れてしまった私に、彼はそれが当たり前であること、自分にストレスがかかっていることを理解することの大切さを教えてくれました。
それからは、ストレスを感じれば、その発散に運動をしたり、可能な限りおいしいものを食べたり、心身のバランスをとるようにしています。また同僚でそういった状況にいる人がいれば、寄り添って話を聞くようにもしています。特にチームを率いるようになってくると、新人の部下がどういった精神状態にあるのかということを理解する必要性を感じます。長期の休みを取ることも、そういった意味で大事です。仕事が仕事なので、いつまでこのような働き方ができるのか、時には立ち止まって考えることができるのも恵まれているなと思います。
※現在、日本人の応募はアジアの人事部で受け付けているので、英語に自信がある方は是非下記にお問い合わせください。
How to apply
Interested applicants should submit their CV to Angelita Bombarda (MS), ICRC’s HR Marketing Officer for Southeast Asia and the Pacific: abombarda@icrc.org
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