パズルのピースを一つ一つ当てはめるように… リン・シュレーダー新駐日代表を迎えて
2012年7月より駐日代表を務めてきたヴィンセント・ニコ(以下VN)。今年3月9日に後任として着任したリン・シュレーダー(以下LS)と、日本とICRCの関係、また紛争地ではない日本における活動の課題や目標について話しました。
LS: ICRCでのキャリアを1997年にスタートさせてから、これまでたくさんの国々で働いてきました。最初の勤務地はウクライナとアルメニアのロシア語圏で、その後、南米やアフリカのルワンダ、シエラレオネ、チャドで勤務しました。アジア太平洋地域ではスリランカとフィジー。そして今回、日本で勤務することになりました。ほぼ全大陸を経験したことになりますね、もちろん南極以外という意味ですけど…。
VN: 私は主にアフリカとアジアで活動してきました。最初はアジアで、その後アフリカで約15年間、またアジアに戻って13年間、ジュネーブ本部で2年間働きました。アフリカでは、スーダンやエチオピア、南スーダン、ケニア、モザンビーク、アンゴラ、南アフリカ、ザイールからの転換期にあったコンゴ民主共和国、ケニアと活動を続けてきました。
ICRCで働き始めた頃、もう35年も前になりますが、私たちの仕事は冷戦の影響を強く受けていて、アンゴラやモザンビークでの紛争は、冷戦下の「代理戦争」とも呼ばれていましたね。また、アパルトヘイト体制からマンデラ氏率いる新政権への転換期にあった南アフリカで勤務できたのは、貴重な経験です。このように、私のキャリアは現場に軸足を置いたものでした。アジアでの活動に関して言うと、最初のミッションはカンボジアとタイの国境地帯で、日本赤十字社の医療と建築チームと緊密に連携するプロジェクトでした。リンにとって印象深いミッションは?
LS: 思い出深いのはコロンビアです。スペイン語圏でしたが、非常に興味深い国でした。大変だったのがスリランカでしょうか。私が活動していた時期が、紛争終結の直前だったこともあり、多くの命を救うことができて、成果を残せたと思います。私は現場責任者として医療活動を担当していました。戦闘地域に取り残されていた人々を、6カ月以上にわたって、陸路と海路で避難させました。。
日本には3年ほど前に、旅行で来たことがあるのですが、まさか仕事で戻ってくるとは思いませんでした。各地のミッションに赴く際には、あまり固まったイメージを持たないようにしていますが、ここでの仕事は非常に楽しみです。日本には豊かで多様な文化があり、伝統と現代という対比するものが共生していて、日々感銘を受けます。
VN: 私にとっても日本は関係が深い国ですね。最初の赴任地であったタイで、日本赤十字社のチームと活動した経験は、日本への関心を高めるきっかけになりました。最後の仕事を日本で務められたことは、意義深いです。
日本は非常に豊かな文化を持っています。しかし、私にとってそれ以上に魅力的なのは、この国の均質性です。北へ行っても南へ行っても、同じ伝統や価値、暮らし方、食べ物があります。もちろん、違いもありますが。しかし、ヨーロッパという異質性の高い大陸では、例えばスイスから15キロ運転すると、景色はもちろんのこと言語や宗教も変わり、国自体もフランス、イタリア、ドイツと変化します。このような場所から来たので、日本で最初に気がついたのはその均質性の高さでした。また日本では世代間でも、一定の均質性を保っていて、若者と高齢者の間でも、同じ価値観が共有されています。社会階級においても同じことが言えるでしょう。例えば、バスやタクシーの運転手は、制服と帽子、ネクタイを身につけ、一人ひとりが社会における役割を果たそうとしています。これは、この国がどのように機能するか、ということに関する共通認識があることの現れだと思います。
この国に溶け込むにあたって、苦労したのは言葉です。日本語は非常に難しい言語ですから…。しかし、日本文化の一員でない私でも、非常に歓迎された気持ちになりました。人々は心優しく、よく笑ってくれるので、正直とても居心地がよかったです。
仕事の面で言うと、3年前に駐日代表に就任した私が目標としてきたことは、ICRCの活動に日本の要素を付加していくことでした。私の前任者(初代所長 長嶺義宣)は駐日事務所を開設し、この組織を日本で受け入れてもらうという点で非常に大きな役割を果たしました。私は、次のステップとして資金協力や日本人職員の採用などを通して、これまで以上に日本の価値観や文化をICRCの中で生かせるよう努めてきました。
リン、私がこの3年間行ってきたことを是非継続してください。紛争地での人道支援というオペレーションがない中で、ICRCの存在や関連性を示すのは非常に困難です。でもその努力を現状維持ではなく、新たなアイデアや想像力も取り入れながら発展させてください。
LS: ヴィンセントと 駐日事務所のチームは、これまで多くのことを達成してきましたが、これは常に続いていく仕事で、印象派の絵画を描くような作業だと思います。小さい点をあちらこちらに書き加えて、パズルのピースを一つ一つ当てはめるように、全体像を組み立てていく。私の絵画は完成には程遠い状態ですが、いつか完成できるよう日々努力したいと思います。
私としては、日本の重要なステークホルダーに一方的な支援をお願いするだけでなく、ICRCと同じ方向を向いて活動することが彼ら自身の利益になるのだと認識されるよう取り組んでいきたいと考えています。
日本政府の政策や世界情勢によって、状況は変わるものですが、ICRCは変化への適応も得意としていますので、たくさんの機会を活用して、前へ進んでいきたいです。
VN: 国内におけるICRCの知名度は、現在進行形で高まっていると思います。展示会やセミナー、シンポジウムの開催、広報誌の発行ど小さな取り組みを積み重ねてきた結果だと信じています。赤十字運動全体のためにも、今後のリンの活躍を心から応援します。
日本は災害が起こることはあっても、国際人道法が適用される紛争国ではありません。こうした平和で世界有数の経済力を持つ日本で、ICRCの事務所を開くというのは一種の矛盾であるかもしれません。紛争地での人道支援というオペレーションがないこの国で、事務所の存在を正当化するのは難しいことですが、主要パートナーである日本赤十字社と協働しながらいかにして対話を進めていくか、というのが課題だと思います。
LS: オペレーションのない国での活動で言えば、オーストラリアやフィジーとその他太平洋諸国での活動がそうでした。主に各国の赤十字社との協働を伴うもので、政府などと連携して実施しました。紛争が発生しておらず、国際人道法がその国に直接適用しない場合でも、国際社会の一員として国際人道法の発展に貢献できるよう働きかけてきました。人口わずか5000人の太平洋の小さい島国でも大きな役割を果たせるのです。国連でも発言権を持っていますし。
VN: 私の経験から言うと、日本はこれまで以上に国際社会に貢献ができると思います。一般の方々の関心はそこまでではないかもしれませんが、外務省の方針や外交政策という意味では、とりわけ人道という視点において、日本は世界情勢に非常に敏感です。平和主義憲法が存在することで、日本は特別な角度で国際的な課題に取り組んでいると思います。それはICRCにとって、日本が主要な拠出国であるということからも見受けられます。
しかし、これは頻繁に言われていることではありますが、日本社会が若干内向きであるような印象も受けます。その理由の一つは言葉の問題ですね。また、日本は国際的な問題に対して経済的な支援を行うことに積極的ですが、人員を送ることに対してはいまだ消極的であるように感じます。日本赤十字社には、よりたくさんの医師や看護師を派遣することが期待されています。
私はミッションで日本人と一緒に働いたことがありますが、みなプロフェッショナルで、規律と技術の質の高さには毎回驚かされていました。日本赤十字社のチームとの仕事がほとんどでしたが、彼らは現場でも非常に受け入れられやすく、いい思い出ばかりです。
LS: 日本の医療チームと活動したことのある私も同じような印象を持っています。また一つ付け加えるとすれば、問題に対する取組み方や考え方が柔軟ですね。異なる文化がどのように機能し、出身国が違う者同士がどのように行動するかをよく理解しているのではないでしょうか。ICRCにおいて、職員の多様化は一つの重要な点です。日本人職員の数も、今後さらに増やしていきたいですね。
VN: 35年前のICRCは非常に小さく、職員もほぼ全員がスイス人でしたが、複雑化する世界の状況に対応するため、家族経営の小さな企業が多国籍大企業にまで成長しました。それに伴い、予算や考え方など大きな変化もありました。ICRCはこのような変化に対して、常に適応し続けてきたのです。これまでの小規模で、家族のような友人同士の集まりだったICRCの雰囲気も国際色が強まってきたと思います。
「家族のような」と言いましたが、私はリンのお父さんであるミッシェル・シュレーダーと35年前に一緒に働いたことがあるんですよ。私は新人で、彼は経験豊富なベテラン職員でしたが、娘の話をしていたのを覚えています。ICRCでのキャリアをお父さんとスタートし、娘と終わるというのも不思議なご縁ですね。
LS: 本当ですね。私の実父はベトナム人なのですが、私がまだ生後二カ月だった頃、戦争で命を落としました。ミシェル・シュレーダーは義理の父になりますが、ICRC職員としてベトナムで活動していた際に私の母と出会い、彼がミッションを終えてスイスに戻るときに家族で一緒に海を渡りました。そこで私は学業に励みましたが、昔は、ICRCでは絶対に働きたくないと言っていたんです。やはり子供は反発したいですから、親と同じ職業なんて!と思っていたんです。でも2年間民間企業で働き、自分にはICRCのほうが向いているということに気が付きました。小さい頃からたくさんのICRC職員を知っていましたし、今思うと、ここが私にとって最適な場所だったのでしょう。
ヴィンセントが言っていたように、ICRCは家族経営企業から多国籍企業へと成長しましたが、この世代を超えた「家族のような精神」は大切にしていかなくてはいけないと思います。これはICRC特有だと思います。
VN: そうですね。規模が、家族から村にまで大きくなったとも言えるでしょうか。分野が多岐に分かれていますが、同じ考え方や所属意識、そして同じ旗のもとでつながっていますから。どれだけ規模が大きくなっても、この結束はなくならないでしょう。