ご挨拶 ー 駐日代表より
18年間にわたるICRCでのキャリアを通して、紛争と災害がもたらす苦しみと、人々がその苦難を乗り越える力は、時空を超えて世界共通であることを学びました。私は1997年に、アルメニアとアゼルバイジャン、ウクライナを担当するフィールド要員としてキャリアをスタートさせ、ルワンダとシエラレオネでは、収容所訪問に携わりました。捕らわれた人たちが、塀の中できちんと人道的に扱われているかをモニタリングすることは、国際人道法の守護者といわれるICRCならではの活動です。
その後、スイスのジュネーブ本部で二年働き、内戦末期のスリランカに赴任。特に紛争地から傷病者を避難させる支援を指揮しました。2010-12年はフィジーに拠点を置く地域代表部の首席代表として、オーストラリアも管轄していました。自然災害に見舞われやすい太平洋の島嶼国ですが、実は過去の戦争・紛争で多くの人が行方不明のままなのです。パプア・ニューギニアのブーゲンビル島における分離独立闘争(1988~98年)、ソロモン諸島内の民族紛争(1999-2003年)、そして第二次世界大戦に端を発しています。
日本に着任する直前は、アフリカのチャド共和国代表部で首席代表を務めていました。2010年以降政情が安定してきたので、私たちは8年間続けたチャド東部での戦傷外科プログラムを終了しました。この支援プログラムでは、日本赤十字社から派遣された看護師の方々の専門知識に助けられました。
しかし、周辺国を見ると、不安定な政治情勢を抱えていたり、慢性的かつ広範囲にわたる栄養失調、自然災害や気候変動などの影響に苦しんでいたりしています。
戦後70年の今年、日本赤十字社の社長で、国際赤十字・赤新月社連盟の会長でもある近衞忠煇氏とともに、広島市と長崎市での記念式典に招かれたことは、ICRCの駐日代表としてのみならず、私個人としても心を動かされる経験となりました。
核兵器が後世まで残る悲劇的な犠牲をもたらしたこと、広島・長崎の街と市民が火の海に飲まれたことを、私たちは忘れてはなりません。また、医療施設が破壊されたために、被爆者が治療を受けられず、もがき苦しみながら亡くなっていったことを、心に留めておかなければなりません。これまでの仕事や文献を通じて、核兵器の恐ろしさは知っていましたが、実際に原爆が落とされた街を訪れて、被爆者の話に耳を傾けるうちに様々な感情がこみ上げてきました。
長崎の原爆資料館で、当時10歳の男の子の写真と物語を目にした時は、深い悲しみを覚えました。男の子は亡くなった赤ん坊を背負い、更地にできた火葬場の前で立ち尽くしていました。兄としての最後の務めを果たすために、何日も歩き続けてここに辿り着き、これからはたった独りで生きていかなければならない現実をかみしめていたのかもしれません。
また、広島赤十字病院で働いていた、当時18歳の看護学生ノブコさんの勇気と強さにも心を打たれました。ノブコさんは、物資や薬、安全な水すらないなか、休む間もなく被爆者の看護を続けました。私がその場に居合わせていたとしたら、何ができたでしょう。
私が駐日代表として着任したのは、今年の3月9日。直後に東日本大震災の被災地である仙台を訪れて被災者にお会いする機会がありました。その時も、「私だったらどうしていただろう」と自問しました。収穫したイチゴを誇らしげに味見させてくれた老人は、津波で被災した後、裸一貫からイチゴ農園を立て直したものの、農園の後継ぎがいない、と嘆いていました。
1945年、原爆投下直後の広島に入った日本赤十字社の職員と当時ICRC駐日代表であり医師でもあったマルセル・ジュノーは、想像を絶するような状況のなか、原爆による人々の苦しみを軽減しようと力を尽くしました。日本赤十字社の職員やボランティアは、国内外の人道ニーズに応えようと、日々奔走しています。ICRC駐日代表となり、日本の仲間のそうした姿を目の当たりにしたとき、同じマークを掲げる「国際赤十字・赤新月運動」の一員であることを心から誇りに思います。私たちは世界で最大かつ最古の人道支援ネットワークを有しているのです。今年の10月で赤十字の7原則が誕生して50年を迎えますが、ICRCで働き続ける意欲を一層掻き立てるのは、日本赤十字社をはじめとする各国赤十字社・赤新月社のひたむきさなのです。
残念ながら、紛争や武力の犠牲となる人々は増え続け、現場のニーズも多様化の一途を辿っています。それに伴って、ICRCをはじめとする人道支援組織が取り組むべき課題も増大しているのが現状です。だからこそ、私たち赤十字は、「頑張って!」とお互い声を掛け合って、これからも私たちの助けを必要とする人たちに寄り添い続けていたいと思います。
2015年8月
リン・シュレーダー
赤十字国際委員会(ICRC) 駐日代表
・前駐日代表ヴィンセント・ニコのご挨拶はこちら