核兵器禁止条約から一年:広島で思ったこと

お知らせ
2018.09.21

赤十字国際委員会(ICRC)国際法・政策局のヘレン・ダーラム局長は今年8月に来日し、広島平和記念資料館を訪問。核兵器禁止条約の採択から一年経過し、広島で改めてその重要性を認識しました。

原文(英語)が掲載されているページはこちら
ICRC —  The Humanitarian Law & Policy blog

核兵器禁止条約への署名が始まってから今日9月20日で一年になります。この条約の採択は、国家の大半が、核兵器を倫理的、人道的、そして今は法的側面から、断固拒否していることの表れでした。私は、核兵器のない世界に向けた具体的な一歩となった新しい条約の一周年を記念し、今回の広島訪問を振り返りたいと思います。

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私が広島平和記念資料館を訪問したのは、8月のとても蒸し暑い日でした。まとわりつく湿気をよそに、人々は資料館を訪れ冷静に過去と向き合っていました。ここがそういう場所であることは、はっきりとわかりました。平和を願う気持ちは強く、それは、肌で感じ取れるほどでした。訪問者たちは思いを込めて花を手向け、折り鶴を記念碑の足元に丁寧に置いていきます。

 

原爆を経験した唯一の国として、また、原爆から生き延びいまだに心と身体にあの恐怖の傷を負っている何千もの「被ばく者」の存在故に、広島の歴史と地名は世界中でよく知られています。

 

 

ICRCのマルセル・ジュノー博士は、1945年8月6日の原爆の後に広島に到着し、被ばく者を治療した最初の外国人医師でした。彼は手記の中で、次のように述べています。

 

現場は、私たちがこれまで目にしたことのあるものとは何ひとつ似つかないものでした。街の中心部はある種、手のひらのように、白く平らで滑らかでした。残されているものは何もありませんでした。

 

救急病院への訪問についての記述で、彼はこう付け加えています。

 

数名の患者は、出血多量を伴う放射線の遅発性症状(放射線被ばくから、その影響が出るまでに時間がかかる症状)で苦しんでいます。彼らは、定期的に少量の輸血が必要です。しかし、ドナーはいません。血液型の適合を判定する医師もいません。従って治療するすべはありません。

 

ジュノー博士の足取りを追いながら、広島の地に立ってみましたが、ここで起きたことの重大さ、そして苦しみの大きさを理解することは、あまりにも難しすぎました。その一方で、広島平和記念資料館は、悲しみを表現し、希望を持たせることにおいて、素晴らしい役割を果たしています。証拠や事実、数字を提示し、痛ましい展示と冷静な証言に、私は大変感銘を受けました。

 

そこに行けば多くの人が知ることになるでしょうが、広島に投下された原爆は、市の13平方キロメートルを焼き尽くした火の玉を形成しました。その結果としてもたらされた死と破壊の事実は、到底想像できないものです。広島の建造物の約63%が完全に破壊され、それ以上に多くの建物が被害を受けました。広島で亡くなった方は人口35万人のうち10万から18万と推定されています。広島と長崎での犠牲者数を合わせると、約34万もの方が即死あるいは原爆投下後5年以内に亡くなりました。

 

しかし、この事実に加えて、資料館で私の心を最も動かしたのは、小さな展示物たちです。子ども用三輪車の曲がった残骸を見て、金属に対する爆発の影響の大きさを思うと、小さな身体に何が起きたのだろうと胸が張り裂けます。丁寧に並べられた被ばく者の衣類や学生服には、その焦げた布地に血痕の跡がはっきりと見てとれました。日常生活で使うもの―――お弁当箱や時計、水筒—――はひび割れているか、原型が分からないほどに曲がっていました。

 

核兵器禁止条約は、核兵器による壊滅的な人道的影響を認め、国際人道法とは相容れないことを認めています。使用直後の影響に限らず、核兵器の使用及び核実験による犠牲者への支援と、環境回復を条約は求めています。実際、今も19万人の被ばく者が生存していて、被ばく“二世”と言われる方々は20万人います。どちらも、白血病や他のがんにかかるリスクを抱え苦しみ続けています。多くの人は、外傷性ストレス障害を含めた精神的な不安を抱えています。

 

条約はまた、核兵器を包括的に禁止し、その廃絶に向けた道筋を提供しています。核兵器は即座には無くならないでしょうが、核兵器使用が不名誉なことであるという意識を強め、核リスク低減への努力を支持します。特に、軍縮努力の礎であり続けている1970年の核兵器不拡散条約の第6条への取り組みを強化します。また、核兵器禁止条約は、核兵器の拡散を阻止する明確な要因となりえます。国際的及び地域的緊張が高まることで核兵器使用のリスクが増加しつつある今日において、特に重要な要素です。

 

核兵器禁止条約はまだ発効していませんが、昨年、署名した国と採択を支持した多くの国では現在、国内の承認手続きが進んでいます。これらの手続きには、当然、時間を要しますが、近い将来、条約発効に必要な50カ国の批准に達すると私は確信しています。

 

この先、全ての国に対して私たちが核兵器禁止条約への参加を促す過程において、今回の広島平和記念資料館の訪問の記憶は常に私に寄り添ってくれることでしょう。私たちが初めて核兵器廃絶を訴えたのは、ジュノー博士と私たちの同僚がその荒廃と筆舌に尽くしがたい人々の苦しみを広島と長崎で目にした直後の1945年9月です。ICRCを含めた国際赤十字・赤新月運動は、冷戦期間中も繰り返し訴え、常に声をあげてきました。

 

資料館の迫力は、条約やどんな統計をも越え、日常生活を送っていた男性、女性、子どもたちなど、そこにいた人々に思いを馳せるのに格好の場所です。致命的で受け入れがたい兵器をたった一回使用しただけで破滅させられた人々です。その迫力はまた、人類の真価、人間の尊厳、そして核兵器の恐怖から解き放たれた自由な世界への、人類共通の信念に向けたある種の希望を私の中にかき立ててくれました。

 

広島平和記念資料館の志賀賢治館長とヘレン・ダーラム局長

 

原文は本部サイト(英語)をご覧ください。