原爆投下後の広島で救護活動にあたった女性を訪問
2023年5月8日の世界赤十字デーに、赤十字国際委員会(ICRC)駐日代表ジョルディ・ライクが広島を訪問。原爆投下直後に広島の赤十字病院で救護にあたっていた上野 照子さんと対談しました。
当時15歳だった上野さんは、広島赤十字病院にあった救護看護婦養成所の2年生でした。自身も被ばくし、1946年に救護看護婦養成所を卒業した後6年間、看護師として広島赤十字病院に勤務しました。
看護師を目指した理由について上野さんは、「戦争がたけなわで、従軍看護婦として、傷病者の手当てをすることが自分が国にできることだと思い、看護婦になろうと決意しました」と語りました。そのための訓練は、軍隊同様、本当に厳しかったと言います。
原爆が投下された直後についてライクが尋ねると、当時の様子をつぶさに語ってくれました。
朝から発令されていた警報が解除され、それぞれが仕事に戻りましたが、すぐに戦闘機であるB-29(航空機)が飛んで来たので、全員が不思議に思いました。当時、院内で赤痢が流行っていたこともあり、私は娯楽室と調理室の間で食器などを消毒していました。すると突然、閃光が走り、「なぜ、朝から照明弾を落とすんだ?」と不思議に思ったのを覚えています。するとすぐに爆発音が聞こたので、急いで机の下に隠れました。その直後、患者さんたちの「助けて、助けて」という叫び声が聞こえてきました。
幸いにも無傷だった上野さんは、すぐに婦長室に向かったと言います。
窓の外から景色を見ると、病院の近くにあった民家は全て燃えていました。婦長から、消火用のバケツで火を消してと言われ、バケツリレー方式で消火活動をしましたが、間に合わず、火は寄宿舎にも燃え移ってしまいました。
病院を訪れる人の多くは、上半身に火傷を負っていたものの、当時の病院に治療薬はほとんどなく、傷口から湧き出たウジを取り、消毒薬を塗ることしかできなかった、と当時の医療現場を振り返ります。
また、当時は食糧難だったので、ほとんど食べるものがありませんでした。ある日、炊事場から炊いたお米が米びつで持ってこられたのですが、中にも米びつ一杯にハエがわいていました。
上野さんは原爆投下数日後に探しに来た父親に一緒に帰るように勧められましたが、断ったと言います。「自分は傷病者の方々のために働きたいと思い、帰郷せずにそれから1カ月半、不眠不休で手当てを行いました」。
対談を終えたライク駐日代表は、直接被ばく者から話を聞ける貴重な機会だったと語り、「核兵器の廃絶に向けて、被ばく者の方々と一緒に取り組んでいきたいという気持ちがより一層強くなった」と決意を新たにしました。
サーロー節子さんや下平作江さんなど、被ばく者への過去のインタビューや、証言集などはこちらの特設ページをご覧ください。