地震で失った希望を取り戻すまで
2005年10月8日。その日も人々は雑用をしたり、家事をしたり、子どもたちは学校に行ってテストを受けたり、あるいは畑仕事に出たりと、何の変哲もない日常が流れていくはずでした。しかし、パキスタン北東部のカシミール地方を襲ったマグニチュード7.6の地震は、人々の暮らしごと揺さぶりました。あらゆる建物はがらがらと崩れ去り、道路や水道も壊滅的なダメージを受けました。この日、何万世帯もの家族の生活や人生が一変したのです。地震による犠牲者は73,000人に上ります。なんとか生き残った人々も重傷を負うなどして、精神的にも肉体的にも障がいが残りました。
生存者たちが生きる力をかき集めて再建を始めたころ、2007年にオープンしたムザファラバードリハビリセンターを通じて国際赤十字委員会(ICRC) が障がいを負った人々のリハビリ支援に入りました。専門家が患者の診察を行い、適切な義肢や装具、あるいは車いすを提供し、理学療法を行う他にもより独立した生活が送れるようにと移動補助具の使い方の訓練も行いました。今後の暮らしを立てようと補助金を受け取る人々もいます。
地震から14年が経過し、当時の記憶をぽつりぽつりと話してくれる人々が現れました。彼らが元の状態を取り戻すまでの経過や、暗闇の中を手探りで歩くような日々にも負けず、どのようにして自分を見失わずにここまで歩んでこれたかについて話してくれました。
ラビア:神の審判が下ると思ったあの日
地震が起きた時、ラビアさんは5歳でした。「ちょうど学校でテストを受けていました。あらゆるものがグラグラと揺れだしました。皆が言うように神の審判が下る日が来たのだと思いました。空が落ちて来るという人の声に私が思わず上を見上げたその瞬間に、壁が倒れてきました」と、当時を振り返ります。
その後11日目にして残念なことにラビアさんの脚を切断することになりました。ラビアさんの母は気丈にも、娘の人生がこれからどんなに厳しいものになろうとも、克服の手助けしようと心に決めました。ラワルピンディの複合陸軍病院で治療を受けるまでに1年。チャル基金を紹介してもらったのはラビアが7歳の時でした。「支援は多岐にわたります。私が看護師になろうと決意したときには勉強もみてくれました」と言います。そして母の力強い後押しがありました。「母は勉強に遅れが出ないようにとマドラサ (宗教学校) や学校への送り迎えをしてくれました」と語ってくれました。
子どもから若い女性へと成長したラビアさんは、母のガッツを受け継ぎ、障がいを持つ人々と社会がいかに向き合うべきかについて講演をするようになりました。障がい者は障がい者らしく振舞いなさいと言う周囲の声が多いと言います。「例えば外で遊ぶことはできないと言う人がいます。すると、本当は外で遊ぶことはできるけれども、自分が障がい者なのだということを意識させられます。障がいを持つ人も普通に扱うべきだし、できる・できないで線引きをしないで、どんなことでも普通に参加してもらうことが重要です」と締めくくりました。
エマン・バトゥール:娘の将来を悲観した母が笑顔を取り戻すまで
地震で村が壊滅したあの日から、親類に預けていた我が子に再会できるまでに15日かかりました。「すべての道路が通れなくなり、なす術もありませんでした。当時3歳の娘に大丈夫だからね、と言うより他に何も言えませんでした。そうこうしているうちに預かってくれていた親戚から壁の下敷きになった脚を切ることになったと聞かされたのです」と、エマン・バトゥールさんの母が話してくれました。治療をするために幼い娘をカラチまで連れて行きましたが、結局脚を切断することになりました。エマンさんが痛みと闘っている姿を見ながら母は娘の将来を思い、二度と歩くことができなくなったと思うと悲しくて胸がつぶれそうでした。
家ではエマンさんの父が、娘の体を支えられるようにと簡単な松葉づえをこしらえて待っていました。しばらくしてから娘をアボタバードに連れて行き、再び立って歩けるようにと義足を付けることにしました。ごつごつしていましたが、エマンさんが初めて使うには十分です。娘の将来を悲観していた母は、娘がまた立ち上がった姿を見て、ようやく笑顔を取り戻すことができました。
それから2年後の2007年にエマンさんを連れてムザファラバードにあるICRCの身体障がいリハビリテーションセンターへ向かいました。最初の固い義足をより上等な義足に替え、理学療法士がついて運動療法を行い、歩く練習もしました。「皆さんには想像以上に良くしてもらいました。私が自分の足で立てるようにと、力を尽くしてくれました」とエマンさんは話します。それから11年。エマンさんはすっかり自信を取り戻しました。今度は自分が人を助けたいと思い、将来は心臓専門医になりたいと夢見ています。
アビド・アリ:心と体の安らぎを求めて
「手術をしてくれた医師が私の心と頭がこの一年間は戦争状態になるぞと言いました。心では大丈夫だと思うけれど、頭では何かおかしいと考えるようになるのだと。本当に先生の仰る通りでしたよ」とアビド・アリさんは言います。
地震による破壊は彼の心も大きく揺らし、心に深い傷跡が残りました。「悪夢ばかり見るのです。こんなことでは惨めになるばかりだと思い、治療を受けようと思い立ちました」と、その時の心境を語ってくれました。ある日病院から家に帰ろうとしていたときのこと。対向車が自分の車に激突してアビドさんの窓枠にかけていた右腕を押しつぶしました。「自分の骨が飛び出ているのが見えました」と言います。
アビドさんはピンディに連れて行かれ、そこの病院で腕を切断することになりました。病院のベッドに横たわりながら、この状況に負けるものかとアビドさんは決意しました。「それまでは読書したり、文章を書くことが大好きでした。そこで腕を切断した翌日に紙とペンをもらい、左手で書くことを始めました。今では右手で書いていた時より左手の方がよっぽど上手に書けますよ」と誇らしげです。
見舞いに来たいとこがICRCは自分のようになった人たちの支援をしていると教えてくれました。「これを聞いた途端に心配の半分が消えたかのようでした」と言います。アビドさんは手書きもタイピングも軽々とこなします。最近は事務の仕事をしています。他のひとたちと引けを取らず、いろいろなことができるようにりたいと望んでいます。
ムハンマド・イドリーズ:人生を取り戻すまで
2005年10月、ムハンマド・イドリーズはカレンダーに印をつけながら、自分の結婚式の日を指折り数えて待ちわびていました。「ラマダン月で、野良仕事をしている父の元へ行こうとしたところで、地震が起きたのです。父が倒れるのを見て父の方にかけ付けようとしました。そこに地滑りが起きて転がり落ちてくる岩に二人ともやられたのです」と、当時の状況を振り返ります。ムハンマドさんは重傷を負い、父親は即死しました。
恐怖とショックで、ムハンマドさんは自分も死ぬのだと覚悟したとき、親戚の一人が助けに来てくれました。
「病院に着いた時にはまだ意識がありました。医師に脚を切断しなければならないと告げられたとき、私は医師の判断に委ねることにしました。」
2週間が過ぎても心身の傷はまだ癒えたわけではありませんが、ムハンマドさんは結婚式をあげました。人生はゆっくりとまた進み始めましたが、職がありません。そこで道端で果物の販売を始めました。これがICRCの身障者リハビリセンターのスタッフの目に留まるきっかけでした。「その人は義足をもらえるかもしれないと言い、さらにICRCから暮らしを立てるための助成金をもらえるとも教えてくれました。これを聞いた時には自分の耳が信じられませんでしたよ。何しろ義足があるなんて知りませんでしたから」と、当時の驚きを語ります。
ムザファラバードにあるリハビリセンターで、ムハンマドさんは義足を付け、再び歩く訓練を始めました。「センターの治療には驚かされました。センターの皆さんはいつも目配り・気配りが行き届いていて、しかもすべて無料なのです」と今でも感心することしきりです。ムハンマドさんは助成金で人力車を買いました。このお陰で土地と家を買うことができました。三児の父となったムハンマドさんは、子どもたちの夢がかなう日を待ち望んでいます。「長男がクラスで5番の成績を取りました。将来は軍隊に入りたいそうです」と目を細めて語ってくれました。
カーシッド・アハマド:違和感の克服
クラスモニターのカーシッド・アハマドはクラスメートの練習問題を集めているときに、大地が激しく揺れだしました。「天井が落ちかかってきたとき、ドアに向かって1メートルほど歩くのがやっとでした。手が押しつぶされ、脚が瓦礫に挟まりました。私はそのままの状態で弱々しく泣いているところへ父が私を探しに来てくれました。私の声に気づいて私を引っ張り出してくれたのです」と、カーシッドさんは当時10歳の記憶をたどります。
イスラマバードに飛行機で連れて行かれ、そこで腕を切断しました。シャツの片袖をぶら下げた姿でそれから1年後に学校に戻りました。その後5年間はこのような姿で過ごしました。「鏡に映る自分の姿に違和感を覚えました。腕の無い自分の姿は何かの間違いではないかと思えて仕方ないのです」と話します。ICRCにいる知り合いから聞いた話だがと前置きして、親戚の一人が義手が手に入るかも知れないと話してくれた時からカーシッドさんの人生はぐるりと変わりました。「今では腕が無いことを忘れることがよくあります」と力強く言いました。
バーバー・ムガル:「他の人と変わりなく生きよう」
何もかもが地震で崩れ落ちたあと、バーバー・ムガルさんは崩れ落ちた校舎の下敷きになったまま2日が経ちました。クラスメートのうち4人が地震で崩れた建物の下敷きになって圧死したことを知り、バーバーさんの両親は息子も生きてはいまいと思ったそうです。寸断された道を通り、瓦礫をかき分け、倒壊した学校にたどり着くと、そこに6歳になる息子が合図を送りながら、救助を待っている姿がありました。しかし、重傷のためすでに血も流れていない脚を見た医師は、命を助けるには脚を切断するしかないと言いました。そして切断に踏み切ったのでした。「一年たってから、脚を切らなくても治療できたかもしれないと知りました」と、ハーバーさんは目を落とします。
2年間は松葉杖をついて歩く状態でした。2007年にICRCの身障者リハビリセンターを訪れ、最初の義足を装着しました。バーバーさんはゆっくりと、しかし力強い歩みを取り戻しました。「今では義足が離せません。他の人のように普通の生活をしようと頑張っています。リハビリセンターのスタッフは大変良くしてくれたので、もう痛みもありません」と言います。バーバーさんは、検診のため1年に1度センターを訪れ、義足の交換をします。それ以外は大学の入試に集中。将来は総務の仕事に就きたいと考えています。
ナスリン:自由に向けてゆっくりと歩きだす
ムザファラバードを地震が襲った時、19歳のナスリンさんは結婚する日を指折り数えて待ちわびていました。彼女は自宅にいてあれこれ雑用をしているときに家が倒壊し、下敷きになったまま気を失いました。目が覚めた時にはすでに両足がありませんでした。医師はナスリンに脊髄が損傷したので二度と歩けないだろうと告げました。「私の村には病院も理学療法施設もありませんでした。自力で何もかもしなければならないため、この状況で回復しようというのですから苦労が絶えませんでした」と言います。
生き抜こうとする本能のままに、ナスリンさんは車いすに乗る練習をして、最初に移動の確保をしました。ある日車いすの修繕のために町まで出かけたとき、ある医師が義足をもらえて支援が受けられると教えてくれました。そんな日は再び来ないと思っていたのに、練習次第で歩けるようになるかもしれないと言われました。
10年以上が過ぎてからようやく自分の足で立ち上がるための支援を受けるようになりましたが、複雑な感情に襲われています。「期待と不安で頭がいっぱい」なのだと言います。担当の理学療法士は治療の進み具合で今後6ヵ月から7ヵ月以内に歩けるようになるのではないかと見込んでいます。