レンズ越しに見た戦禍のシリア
リカルド・ガルシア・ヴィラノーヴァ(Ricardo García Vilanova)
スペイン出身のフリーカメラマンで、19年以上のキャリアを持つ。アラブの春やイスラム国(IS)に関連した紛争の報道写真を手掛けるなど、紛争地や人道危機をテーマに現地の様子をカメラに収めている。2019年にイラク、2020年にはナゴルノ・カラバフ紛争、また今年3月にはシリア危機10年に合わせて再びシリア入りするなど、常に国際情勢の潮流に乗りつつ、最前線の現場に飛び込んでいる。
世界で名だたる新聞や雑誌への掲載実績を数多く誇る。ライフ誌、ニューズウィーク誌、タイム誌、ニューヨーク・タイムズ紙、ワシントン・ポスト紙、ウォール・ストリート・ジャーナル紙、ル・モンド紙、ガーディアン紙、タイムズ紙、デア・シュピーゲル紙など枚挙にいとまがない。
ICRCに限らず、国連や国境なき医師団、ヒューマン・ライツ・ウォッチなどにも写真を提供するほか、フリーランスのビデオジャーナリストとしてCNNやBBC、アルジャジーラ、チャンネル4、VICE、PBS、ユーロニュースなどの報道機関にも映像を提供する。
2010年にウォール・ストリート・ジャーナル紙よりピューリッツァー賞の候補に推薦される。過去の受賞歴は次の通り。PX3(4回)、世界報道写真大賞(2回)、国際写真賞(2回)、モスクワ国際写真賞(2回)、LensCulture写真賞(2回)、バイユー・カルバドス・ノルマンディー賞、全米報道写真家協会賞、DAYS国際フォトジャーナリズム大賞、山本美香記念国際ジャーナリスト賞、インターナショナル・プレスクラブ賞。ビデオジャーナリストとしては、ローリー・ペック賞を受賞している。
ICRC駐日代表部に寄せられたリカルド・ヴィラノーヴァ氏のメッセージ:
2011年初頭から激化した「アラブの春」に端を発し、シリアは崩壊しました。当時シリア国民は、二世代にわたるアサド政権の色が濃く反映された社会を変えたい、と望んでいました。
イスラム教のスンニ派やシーア派から、クルド人、キリスト教徒、アルメニア人まで各勢力が一丸となって、アサド現大統領率いる政府軍と衝突しました。しかしこうした革命の動きは、数カ月のうちに制圧され、アラブ連盟をはじめとした国際社会の支援が得られなかったことを忘れてはなりません。
本来、民間人を保護し、犠牲者を減らすために(一時的にでも)飛行禁止区域が設けられるべきでした。
隣国のレバノンやトルコ、ヨルダン、イラクなどに何とか逃れるか、あるいは死を覚悟でシリアに留まるのか、人々は二択を迫られました。2011年から2012年にかけて私が出会った人の大多数は亡くなりました。無益な戦闘が行われるなかで苛烈さを増す爆撃によって命を落とす人。“戦争ビジネス”の巻き添えになって亡くなった人。理由はともあれ、多くの人の命が奪われました。
私が初めて犠牲となった民間人を目の当たりにしたのは、2012年2月、中部ホムスででした。当時5歳だった少年が額の真ん中を撃たれて亡くなったのです。既にその頃、恐怖を人々の心に植え付けて抑圧するために、民間人が計画的に攻撃されていました。少年は、戦車や迫撃砲による攻撃が止んだのを見計らって、アル・カスルの街に遊びに出かけたところでした。彼は、50万人と言われるこの紛争の犠牲者の1人に過ぎません。空爆が再び開始され、彼の両親は少年を弔い、埋葬する時間がほとんど持てませんでした。この当時、シリア中で親が子どもを、子どもが親を弔うシーンに出くわしました。その様子は、私の脳裏に焼き付いていて離れません。
北部の都市アレッポでは、爆撃開始から数週間、政府軍が設置した検問所を車で通る以外に、包囲された市内に入る方法はありませんでした。爆撃によってかつての大都市は廃墟となり、焼け焦げた車や破壊された住宅の残骸が見られるだけで、街から人影が消えました。
爆撃には、戦車や迫撃砲が用いられました。その後、ヘリコプターや戦闘機も加わりましたが、常に小規模の編成でした。国際社会から非難されないよう計算ずくで攻撃を手加減し、国連決議の隙をどこまで突けるか試しているようでした。後に、空港の支配権をめぐり戦闘が繰り広げられる中でたる爆弾が使用され、北西部イドリブにあるタフタナズなどの都市が丸ごと破壊されてしまいました。そして、人々がより恐怖を抱くようになったのは、スカッドミサイルが使われるようになってから。音もなく投下され、爆発とその衝撃波によって、アレッポの一部が跡形もなく消滅したのです。