ウクライナ:DNA、そして亡き人の尊厳

©ICRC
ロシアとウクライナの武力紛争の激化によって、尊厳をもった遺体の取扱いを目指す法医学機関の多くが攻撃を受け、機能不全に陥りました。故人の身元特定には、DNAが鍵です。
ウクライナでの戦闘が激しさを増すなか、ナタリアにとって最大の恐怖は他者を助けられないことでした。ナタリアは、ウクライナ内務省国立科学捜査センター(SSRFC)の比較DNA鑑定部門の主任法医学専門家として、武力紛争の影響を受けた人びとを支援する方法に向き合ってきました。
「亡くなった方とその遺族に私たちができることは、ご遺体を埋葬する機会を待つ家族に遺体を返還することです」
遺族が身元判明と遺体の受取りができるまでには、長く複雑な手続きがあります。その手続きにおいて、ナタリアのDNAを使った仕事が重要な役割を果たします。DNAは、指紋のように各人に固有のため、身元不明の遺体特定に役に立ちます。近親者のDNAサンプルと照合することで、行方不明者のリストから、遺体の身元確認をできる可能性があります。ガラス張りの滅菌済の研究室で、白い防護服と青い手袋、そしてフェイスマスクを身に着けたナタリアと初めて会ったとき、彼女は小さな丸鋸を使って骨片から組織サンプルを取り出しているところでした。

ナタリア、SSRFCの比較DNA鑑定部門の主任法医学専門家 ©Pat Griffiths/ICRC
身元不明の遺体からの組織サンプル採取は、最初のステップに過ぎません。この作業をとおして、身元不明者全員に固有のDNAプロファイルが作成されます。「これから、親族のDNAデータベースを使ったマッチングの作業に移ります」。
前線における遺体回収と移送
ウクライナ全土で、武力紛争により亡くなった兵士や民間人の遺体・身元確認をとおし、人としての尊厳を取り戻す作業が日夜行われています。多くの場合、戦闘の前線が法医学の最初の舞台になります。捜索・回収チームは遺体収集のため、常時行われる戦闘、前線の情勢変化、爆発の危険など相応のリスクを負った危険な作業です。2022年以降、ロシアとウクライナ間の遺体移送時の身元確認の件数は50件を超えます。ウクライナに回収・引渡しされた遺体はウクライナの法医学機関に移送され、身元確認の作業が始まります。
「ひとりでも作業はできますが、チームワークのサポートがあれば、より大きなスケールで社会に大きな違いを生むでしょう」とルスラン・アバゾフSSRFC副所長はいいます。
アバゾフ副所長の業務は、各省庁や機関にある法医学チームや現場との連携調整に加え、赤十字国際委員会(ICRC)のような人道支援団体との連携などです。「私たちにとって、各機関との連携によって法医学の能力向上のメリットがありますが、残された遺族にとっては家族の身元確認、そして痛みと悲しみを実際に感じることで初めて活動の成果を実感することができるのです」。

SSRFCでDNA鑑定の結果を見るルスラーン・アバソフSSRFC副所長 © Pat Griffiths/ICRC
ウクライナの法医学機関が抱える仕事量は膨大です。遺体の捜索と回収、そして死者の身元特定のための法医学的な手順やDNA鑑定にも時間がかかります。そして、今もなお、身元確認を必要とする遺体の数は増える一方です。2025年5月現在、ICRCが把握する未解決の追跡要請の件数は、武力紛争の当事者双方で、126,000人に達します。行方不明者のうち、戦争捕虜と確認されていない人びとは、発見も身元確認もされずに命を落とした可能性があります。全員の発見と身元確認には何年もかかることが見込まれています。

アンドレス・ロドリゲス・ゾロ ©ICRC
DNA鑑定結果の説明
アンドレス・ロドリゲス・ゾロはICRCのウクライナにおける人道分野の法医学的チームを率いています。ICRC独自の活動のひとつで、国際武力紛争において、戦死したり捕虜になったりした人びとの尊厳の促進を目指します。法医学の仕事は、アンドレスにとって遺体の身元特定のみならず、故人の尊厳を守ることも意味します。アンドレスにとって、DNAは身元確認の過程における欠かせない要素ですが、「他の情報源と組み合わせ、遺族への適切な説明が必要です」と言います。

ロシアとウクライナ間の遺体の移送を監視するICRCスタッフ ©ICRC
DNAは最も信頼性が高く正確な証拠である一方、その精度は2つのサンプルの一致の度合いによる確率論に基づきます。家族は確率論の結果をどのように受け止めるでしょうか。98%と99%の違い、あるいは結果が100%でない場合、どのように信じることができるでしょうか。このようにDNA検査に確信がもてない場合は、他の法医学的な識別方法を活用します。遺体から得られる情報(年齢、性別、身長、指紋、歯科所見、タトゥー)および、遺体が発見された場所と時期などの情報は、DNA鑑定の結果を裏付け、身元特定に役に立ちます。遺体と一緒に私物が残されていた場合や、IDタグが使用されていた場合、さらに裏付けの精度が上がります。
遺族に対して愛する人の死を説明することは、その受け入れがたい結果を理解してもらうための鍵になります。SSRFCは毎週遺族を対象とした複数の教育セッションやコミュニケーションセッションを実施しています。ICRCの法医学チームは、DNA鑑定の機材、数十万個の検体採取キットおよび研修の実施、法医学インフラの構築と維持だけでなく、ロシアとウクライナ間の遺体の返還において、中立的な仲介者として立ち会い業務も行ってきました。
身元を特定することで、故人のアイデンティティが回復されます。ある意味において、故人の尊厳をも回復することができるのです。
アンドレス・ロドリゲス・ゾロ
DNA鑑定などを経た遺体の送還は、故人が自己同一性を取り戻すための長い道のりのはじめの一歩となります。
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